能は室町時代に大変隆盛し現代まで伝わっていますが、その起源はさらに時代を数百年遡ると言われています。
 能や狂言の元になったとされるのには主に、神楽系の歌舞(その起源を古事記や日本書紀の、アメノウズメのミコトが天の岩屋戸の前で舞い踊ったとされる神話まで遡ることのできる神楽舞)、奈良時代に中国大陸から雅楽とともに伝わった散楽が日本古来の滑稽の芸と融合した猿楽、そして五穀豊穣を祈る農耕神事に端を発する田楽であるとされています。
 これらが影響を与え合い、融合し、能の起源とされる猿楽能へと発展し、大和猿楽と近江猿楽という大きな二つの流れを作りだしました。その後、物まね芸主体の猿楽の中に歌舞を取り入れ、優美で貴族的な上品さをプラスし、演劇性を強め、猿楽能は観阿弥(かんあみ)世阿弥(ぜあみ)親子によって大成してゆきます。
 こうして鎌倉時代の中ごろから徐々に能の本流が形成され、さらにその中でも謡と舞を中心とするものが能、会話を中心とするものが狂言へと別れていったようです。
   
 
   
 能と狂言は、同じ能舞台で交互に演じる形を基本としています。15世紀頃には能と能との間に狂言を演じた記録が残されており、現在の能公演の原型は、この頃定着したとされています。
 また室町時代頃、勧進(寺社の修理や建立を目的として一般から寄付を受けること)のために芸能を行って金銭を集めること(今で言うチャリティ公演)が行われていました。勧進興業が盛んになるにつれ、猿楽能は神事としての儀式色を薄める代わりに民衆の寄進を得る、つまりは民衆が喜ぶ芸を追求する役目を担い、木戸銭をとる形が生まれました。これは同時に座ごとの人気を競う結果となり、演目の改訂や新作の工夫など、生存競争に残るための努力を要することとなったのです。
 室町当時の興行は一曲一時間ほどの能作品を五曲ほど演じる事が多かったようです。したがって開演から終演までのスケジュールは大変ゆったりしており、観客たちも弁当などを持ち込んで丸一日かがりで見物するという一大イベントでした。
 また、将軍足利義政が能を愛好し後援したことから、諸国大名らの間にも能舞台をつくり、能、狂言師たちを抱え、能会を開くことが流行します。素晴らしい能興行を開催することは大名たちにとって、自分が風雅を解する実力者であることの証であったとされています。つまり能は権力者たちのPR手段でもあったわけです。
 やがて織田信長・豊臣秀吉の頃から江戸へと時代が変わっても能楽・狂言は時の施政者に保護され、安定した基盤を築きあげます。この頃から能楽界は分業制度を開始し、シテ方、ワキ方、狂言方、囃子方などそれぞれ流派ごとに代々独自の技を磨くようになり、親から子へ代々芸を伝承してゆく流れも整いました。

 
 
   
 もともとの能舞台は、ただ空き地に土を盛り上げただけのものでした。つまり、舞台の四方ぐるり、どこからでも見物することができたわけですから、能や狂言は必然的にどの方角からみても美しくわかりやすく見えるよう、動きや形が工夫されています。室町期に木戸銭が発生するようになってからは、屋外に能舞台や桟敷席をしつらえるようになりました。周囲に幕をまわした中に客を入れる形態でしたが、まだ屋根はありません。能舞台が現在のように屋内に設置されるようになったのは明治になってからです。
 また能舞台の奥には必ず松の絵が描かれています。能の起源である猿楽は神社に奉納するものでした。春日大社の「影向(ようごう)の松」に神様が降りてきて祭りを見物する…とされていたことから、鏡板に松を描くようになったのです。
 飛鳥山薪能の舞台は、室町時代と同じ屋外、さらに天然の松が舞台奥に配されております。まさに神様にお目にかける能といった趣を楽しむことができるのです。
 
 
   
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